大悲倦(ものう)きことなく常に我を照らしたまう

The great compassionate one is,all the time,untiringly shining upon me.

見捨てないでください。
がんばっているのですから。
スケジュールは一杯、
だけど、私はエンプティ。

信じたいのです。
信じられたいのです。
ほほえみは一杯、
だけど、私は消え入りそう。

帰りたいのです。
どこに帰ればいいのでしょう。
友だちは一杯、
だけど、私はひとり。

 

 いろいろと心くばりもし、努力もしているのですが、なぜか消え入りそうで、ひとり。エンプティなのです。
 自分自身をカラッポと思うのは、どういうことでしょうか。
 普通、私たちは心が中心にあって身をコントロールしていると考えています。それで、すべての問題は心の持ちようで決まると豪語しています。
 現代人の表現できない悲鳴は、私の心で、わが身をむりやりに受け止めようとしていることにあると思われます。
 そのためにかえって身が傷つけられ、息も絶え絶えになるのです。ひごろ心が傷つけられるといいますが、心以上に傷つくのは、身なのです。
 現代人の呻きの根はそこにあるといえましょう。
 その私たちに、かねてより親鸞聖人は「私たちは業縁の身を生きてきているのです」と呼びかけておられます。
 業縁の身とは、あらゆる人びとと無意識のレベルで深く関係しあいながら、つながり、しかも永劫の歴史を内容として今ここに生きているわが身そのものなのです。
 実はわが身は私の心より広くて深く豊かなわけです。
 一方、私たちはその広大で深いわが身を小さな私の心で切り取って、その一部分を私のすべてだと思い込んで分かったつもりになってしまうのです。
 私の心でわが身が分かるはずもないのです。
 なぜならば、実は、わが身とは、仏さまの教えに出会い、仏さまの智慧に呼びかけられてこそあるものだからです。
 呼びかけられてこそ呼び覚され、わが業縁の身の事実にうなずき、わが身に素直になる。
 そのままの自分を受け入れてみれば、そのままで、一人一人がつながっていたのです。
 私たちは、呼びかけのなかで、共に業縁の身を生かされて生きている事実に目覚めるのです。
 もつれ糸がほどけます。
 人生のオアシスは、そこにあります。

著:大江憲成(九州大谷短期大学名誉学長)
東京教区真宗会館の首都圏広報紙「サンガ」より転載

法話

Posted by 三宝寺